朝比奈アカリは必死に夜の敷尾市街を駆けていた。長く伸ばした髪を後ろで一つに束ね、汗を散らす姿は、昼の陽の中で見れば健康的で爽やかなものだったかも知れない。
しかし日付を跨ごうとする時間帯に、制服とそのスカートの下にレギンスという姿で街を疾走する姿はどこか違和感があったが、アカリの青ざめ強張った表情を正面から見た通行人は、残らずこの少女の為に道をあけた。

陸上部のホープと期待されるアカリだったが、電車で二駅程離れた自宅からここまで、
ほとんど休み無く走り続けた体が限界を訴える。心臓が無茶苦茶悪茶なスピードで鼓動を打ち、肺は酸素を求めきつく胸を締め上げる。スカートからすらりと伸びたその健脚も今やもつれ気味だ。

しかしそれでもアカリは自身の体に走り続けるように命令する。

特に目的地がある訳でない、この時間でも人が大勢いる場所に行きたかった。
アカリに思いついたのは、敷尾市のセントラルステーションである敷尾駅周辺の商業区だった。自分を知らない人間が大勢いる場所に行けば、アイツから逃げられる。特に根拠の無い考えだったが、今はそれに縋るしかない。

アカリは短く息を吐き、萎え掛けた足を奮い立たせてアスファルトを蹴り付ける。

敷尾駅の南側に位置するオフィス街に入ると、少しづつ人影が増えてきた、終電間際で駅に急ぐサラリーマン達を追い越して走る制服姿の少女は、周囲の目を引くものだったが、今のアカリにそれを気にする余裕は無い。
やがて駅の明かりが見え始めるが、アーケード街などがある北側へ続く道がどこなのか土地勘の薄いアカリには分からない。明かりが見える方向へ、当てずっぽうに道を選び走り続ける。

「ちょっと君!」

不意に呼び止められ、アカリは悲鳴を上げそうになったが寸前で押し殺す。恐る恐る振り返った先にいたのは制服の警官だった。

「どうしたの、こんな時間に学生がこんな場所で」

パトロール中なのか、独特の白い自転車を手で押しながら、がっしりとした体格中年の警官はアカリに近づいてくる。一度止まってしまった体は思った以上に重く、呼吸を整えようとしても乾きすぎた喉は血の味がするだけでうまくできない。

「君はどこの生徒さんかな、駄目じゃないか、こんないかがわしい場所に一人で」

言われて初めてアカリは、所謂歓楽街に自分が踏み込んでいた事に気づく。性的な興奮を煽る看板や、知識としては知っている卑猥なサービスを提供する店に囲まれた上、おそらく目の前の警官に何かまずい勘違いをされかけている事に気づき、アカリの顔は羞恥で赤くなる。

「どうしたんすか、相原さん」

中年警官の後ろからまた一人、今度は若いひょろっとした警官がコンビ二のビニール袋を手に現れる。

「いや、ちょっとこの学生さんがな、えーと君、学校と名前は?」

「あーこの制服、あれっすよ御津尾っすよ、御津尾学園」

若い警官が軽い感じでアカリの制服を見て答える。

「高尾ーお前は何でそういう事は詳しいかな」

「いやー、ほら地域生活に密着した警官を目指してますから自分」

「御津尾ってたら管轄の外だけどな......まあいい」

中年の警官が軽いため息をつくのとは対照的に、高尾と呼ばれた若い警官はヘラヘラと笑う。

「で、君、御津尾の生徒さん?名前とここで何してるのか教えてもらえるかな」

再び中年の警官、相原に向き直られ、アカリは軽くパニックになっていた。大人二人に、まして制服姿の警官に囲まれるのは非常なプレッシャーであり、何にもましてアカリは自分の今置かれている状況をどう説明すれば良いのか分からない。

「あ......えと」

結果、アカリの口から出た言葉は形にならないものだった。

「家出かなんかすかねー」

適当に言っているだろう高尾の言葉にアカリはハッとなる。
一応アカリの現状を説明する言葉ではあるが、全くの見当違いの意見でもある。

「あの、家出だとすると......どうなるんですか」

恐る恐る、という感じでアカリは相原に尋ねた。

「まあそりゃ、親御さんに連絡して迎えに来てもらうか、場合によっては送ることになるが、何?やっぱり家出?」

当然の答えに、アカリは絶望する。

親に連絡されるのは絶対避けなければならない迎えに来るはずも無いが、アイツに居場所がバレてしまう。送られるのも絶対に避けなければならない。

何故なら、朝比奈アカリは家出などしておらず、自宅にいるはずなのだから。

固まったアカリを見て、警官二人は家出少女と決めかけていた。

「とりあえず、ここでは何だから交番まで一緒に来てくれないかな」

二人の警官に挟まれる形でうながされ、アカリはのろりと歩き出す。頭の中でどうやればこの状況を切り抜けられるか考えるが何も思い浮かばず、焦れば焦るほど緊張で胃液がせり上がり吐きそうになる。

「あちゃーアマゾンカワイルカ二個目だ」

高尾は気楽なもので、コンビニで買ったであろう「世界絶滅危惧動物シリーズ」と書かれた、食頑の箱の中身を確認しながら歩いてる。

「高尾ーみっともないから、そういうの道端で開けるな」

相原がやんわりと注意するが、高尾は意に介さずコンビニ袋をあさり続ける。

「いやーこういうの買うと中身が気になって気になって」

二人の警官の気の抜けたやり取りに挟まれながらアカリは必死に考えを巡らせていた。交番までどれくらいの距離かは分からないが、そんなに遠いとも思えない、グズグズしてると終わってしまう。

ー思い切り走って逃げる?ー

いくらアカリの足でも自転車で追いかけられたらお仕舞いだ。

ー自転車を奪う?ー

そんな馬鹿げた考えも浮かぶが、大人二人から自転車を奪えるような力はアカリにはもちろん無いし、ルールを破ることにもなりかねない。

ー自転車が追って来れないような細い路地に走りこむー

無謀だがアカリにはこの選択肢しか残ってないように思えた。
顔をあげると人一人がやっと通れるぐらいの隙間が先のビルとビルとの間に見える。

その先がどこに通じてるかも分からない、行き止まりかも知れない。
だが、このままでは確実に終わってしまう。

アカリは覚悟を決め自分の体を確認する。

呼吸は十分整っている、心臓は緊張でまた鼓動を早めているが仕方ない、正直足の痛みは歩くのも辛いほどだが我慢できないものではない。

「すいません、靴紐がほどけちゃいました」

隙間に差し掛かるとアカリはしゃがみこんだ、もちろん靴紐はほどけてない。アカリは靴紐を結びなおすフリをしながら隙間の先を見つめるが、真っ暗でどこに続いてるかは確認はできない。

「おっ?」

コンビニ袋をあさっていた高尾が何かに気づき声をあげた。相原が一瞬そちらに気をとられる。アカリは小さく手を広げ地面につけると、クラウチングスタートもどきの姿勢を準備する。

ーオンユアマークスー

アカリの頭の中で掛け声がかかる。

「こ、これは!」

高尾がコンビニ袋の中から何かを取りだすと高く掲げた、
その様はまるでピストルを掲げるスターターのようだ。

ーセットー

アカリは空想の掛け声にあわせ腰を上げる、レギンスを履いていて本当に良かったと一瞬考える。

「でたーー!!シークレット!!イベリアオオヤマネコーーー!!!」

高尾の歓喜の声を号砲の代わりにアカリはスタートを切った。

弾丸の様に飛び出したアカリに警官二人はすぐに反応出来なかった。
その間にアカリは迷うことなく隙間に走りこむ。

「おい!君!待ちなさい!」

我に帰った相原が叫ぶ声が聞こえるが、もちろん無視する。街灯の光が届かない狭く薄暗い道を、全力で走るのは恐ろしいが今はかまっていられない。
細長い道の先に明かりが見え、どうやらこの道はビルを挟んだ反対側の通りに続いてると分かるとアカリは心の中で喝采をあげた。
何かに引っかかりシャツの袖が少し千切れ、買ったばかりの靴で溜まった泥にを突っ込むのも気にせず、アカリは更にスピードを上げる。

広い道に出ると、どうやらオフィス街のあたりに戻って来ていたことにアカリは気づいた、
終電の終わったオフィス街は明かりも無く静まり返っている。道端に設置された時計台が日付を超えた時刻を指している事に気付き、アカリはホッとする。

しかし一息つく間を、背後からまだ遠いが確実に追いかけてくる足音が与えてくれない。アカリは闇雲に狭い道を選んでは走りこみ、警官を振り切ろうと走り続けた。角をいくつも曲がり、自分でもどこをどう走っているのか分からない。

しかし、一度限界近くまで酷使した体は早々に音をあげだす。
このままでは追いつかれるのは時間の問題だろう。

何度目の角を曲がっただろうか、追い詰められたアカリの目に一つの建物が飛びこんで来た。

無機質なビル街にそぐわない、ぼんやりとした、それでいてどこかホッとする様な、
ガス灯の明かりに照らされたレンガ造りの3F建ての洋館、壁に伝う蔦と、古びた木製の扉がその歴史を感じさせる。

まるで魔法のような唐突さでその建物はアカリの前に現れた。

アカリは誘われるように洋館の扉に近づくと、控えめに置かれた路上看板に気づいた
古びた木製の看板にシンプルに

「喫茶、軽食 カフェ マヨヒガ」

と彫られている。

アカリは扉に掛けられた営業中の文字を確認すると、そっと扉を押し開けた。







夜の境界線

其の一「マヨヒガにようこそ」


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