夜の境界線

序「おまじない」

「天使さん、天使さん出ておいで、隠れてないで出ておいで」

クラスの女子の間で最近流行っているおまじないの儀式は、そんな言葉で始まる。
さも本当にご利益があるかの様に「天使さん」の噂を話す彼女たちの大半は、
本当にはこのおまじないを信じてはいないだろう。
ただ、ごく狭い社会でコミュニケーションを取るための潤滑油でしか無いはずだ。

何故なら噂話は大抵次の様な内容に続く

曰く、隣のクラスのカップルは女子が「天使さん」にお願いをしたからだ

曰く、部活の先輩が最近記録を伸ばしているのは「天使さん」の力だ

曰く、後輩が「天使さん」にお願いしてテストのヤマを教えてもらった

曰く、最近学校に出てこない彼女は「天使さん」を怒らせたのだ

「天使さん」の話題とすることで、責任を取ることも無く、罪悪感を感じることも無く、
無遠慮に他人のゴシップを交換しているだけだ。

だから、おまじないを馬鹿にするのは「空気の読めない奴」になる。

私が「天使さん」の儀式を行ったのは全くの気まぐれだったと思う。

図書委員の仕事で一人図書準備室に残り、返却本の仕分けをしていた私は、
西日で長く伸びた自分の影を見つけてしまった。

その影が、何となく聞いていたおまじないの儀式の内容を思い出させたのだ。

一つ、学園の敷地内で

一つ、放課後の時間帯で

一つ、誰にも見られずに

一つ、お供えを用意して

一つ、自分の影に向かって「天使さん」に呼びかけ、お願い事をする

なんとも単純な方法だが、様々な部活動がさかんなこの学園は放課後も日没まで残る学生も多く、
誰にも見られずに一人になるというのは意外に難しいのかも知れない。
また、お供えが気に食わないと「天使さん」は怒ってやってこないという話もあった、
最悪やってこないばかりか、罰を与えるというのだから、何とも心の狭い「天使さん」だと思う。

何でも恋のお願いを叶えてもらった女子がお供えしたのが手作りチョコレートで、
怒らせて学校に出てこれなくなるようなトラブルに見舞われた女子がお供えしたのが
酢昆布だと言うのは、最早笑い話だろう。

図書室に誰も居ないのを確認して、私は準備室の内鍵をかけた。
八畳ほどの図書準備室はこれで完全な密室だ。
高台に建つ校舎の4階に位置するこの部屋は外から覗かれる心配も無い。

次に私は自分の鞄から、今朝コンビニで買ったチョコレート菓子を取り出す。
新発売の少し高めの値段設定のお菓子は、手作りとまではいかないが「天使さん」を怒らせる事はないだろう。

チョコレート菓子を箱のまま机に置き、窓を背に影が良く見えるように立ち位置を調節する。

ここまで勢いで準備して後は影に呼びかけるだけになった時、私はふと我にかえった。
一体、何をお願いすると言うのだろうか。
こんな子供だましのおまじないに何を期待しているのだろうか。

だが思い返す。

私は全くの気まぐれでおまじないをするのだ。
明日でも良い返本作業を引き受け、一人図書室に残ったのも気まぐれで、
普段登校前に立ち寄らないコンビニで食べもしないお菓子を買ったのも気まぐれだ。

だから、これから「天使さん」にお願いすることも気まぐれで、
自分では思っても無いお願いなのだ。

私は視線を影に落とすと、おまじないを口にした

「天使さん、天使さん出ておいで」

影は、私の形のまま動かない

「隠れてないで出ておいで、私の影から出ておいで」

陽が落ちかけているのか、影は少しづつその長さを伸ばしていく

「天使さん、天使さん出ておいで」

私はおまじないを繰り返す、影は落ちていく陽で伸びるだけだ

「影から出てきて甘いお菓子を食べよう」

影は窓の反対の壁まで届いている、いよいよ陽が落ちるのだろう

「お菓子を食べたら一緒に遊ぼう」

今や視線は床ではなく、壁を少し見上げるくらいになる

「天使さん、天使さん出ておいで、隠れてないで出ておいで、私の影から出ておいで」

私は天井まで伸びた影を見上げながら
思ってもいない願い事を、
気まぐれに、
口にした。




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